LOSS AVERSION × HEALTH COMMUNICATION × 健康経営

「受けないと損」で人は動く。
損失回避の心理を活用した
保健指導・再検査の受診率向上術

「健康になれます」では動かない人が、
「この権利を失ってもいいですか?」で動き出す。
行動経済学の損失回避(Loss Aversion)を、
健康経営のコミュニケーションに実装する実践ガイド。

✍️ 監修:ウェルネスドア合同会社 代表 狩野 学 | 📅 2026年6月 更新

📌 この記事のポイント

  • ✔ 「先延ばし」は意志の弱さではなく、現在志向バイアスという脳の標準仕様である
  • ✔ 人は「得る喜び」より「失う痛み」を約2倍強く感じる(Kahneman & Tversky)
  • ✔ 八王子市の大腸がん検診実証:損失フレーム群29.9% vs 利得群22.7%(+7.2pp)
  • ✔ 「メリット訴求」→「損失訴求」に変えるだけで、保健指導・再検査の参加率が変わる
  • ✔ 不安を煽るだけでなく「今なら間に合う」+具体的行動をセットで提示する

なぜ、再検査や保健指導は
「後回し」にされるのか

── 「わかっちゃいるけど動けない」は、脳の標準仕様

「健康診断で要再検査の通知が来たが、自覚症状もないし、忙しいからまた今度でいいか…」── 多くの従業員がこう考えます。特定保健指導の実施率は全国平均26.5%(令和4年度・厚生労働省)にとどまり、健診後の再検査未受診者は約3人に1人に上ります。

「健康経営度調査」でも保健指導は重要な評価項目であり、重症化予防は企業の医療費負担に直結するテーマです。しかし、案内を送っても参加率が上がらないのは、個人の「やる気」の問題ではなく、脳に組み込まれた3つのバイアスが原因です。

🧠 行動を阻む3つのバイアス

① 現在志向バイアス:「10年後の健康」より「今日の忙しさ」を優先してしまう

② 現状維持バイアス:自覚症状がないと「今のままで大丈夫」と感じてしまう

③ 楽観バイアス:「自分だけは大丈夫」と根拠なく思い込んでしまう

この3つが重なると、健康リスクが客観的に高い人ほど「まだ大丈夫」と感じやすくなります。だからこそ、正しい知識を伝えるだけでは不十分であり、「伝え方」自体をデザインする必要があるのです。

「1万円もらう喜び」より
「1万円失う痛み」が人を動かす

── 損失回避(Loss Aversion)のエビデンスと実証事例

THEORY

プロスペクト理論と損失回避

行動経済学の第一人者ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーの研究で実証されたプロスペクト理論(1979年、2002年ノーベル経済学賞)によれば、人間は「何かを得る喜び」よりも「同額の何かを失う痛み」を2倍〜2.5倍も強く感じます

利得フレーム(従来型)

「保健指導を受けると
健康になれます」

損失フレーム(ナッジ型)

「この無料サポートの権利を
失ってもいいですか?」

利得フレームでは「目先の面倒」が「遠い未来の健康」に勝ち、先延ばしされやすい。損失フレームは「今ある権利を失う」という痛みに訴え、行動のスイッチを入れます。

EVIDENCE ①

八王子市の大腸がん検診:損失フレームで+7.2pp

東京都八王子市が実施したランダム化比較試験では、大腸がん検診の受診勧奨に損失フレームのメッセージを使用した群の受診率が29.9%だったのに対し、利得フレーム群は22.7%。差は+7.2ポイント。同時に実施された「予約の簡素化」と合わせ、この取り組みはベストナッジ賞(環境省)を受賞しました。

※ 厚生労働省「がん検診受診率向上施策ハンドブック」等にも引用されている実証事例です。

EVIDENCE ②

デジタルナッジ×がん検診メタ分析:OR=1.81

Wang et al.(2025, BMC Medicine)による20研究のメタ分析では、デジタルナッジ介入群のがん検診行動はコントロール群に対しオッズ比1.81(95%CI: 1.31–2.51)で有意に改善。損失フレーム・デフォルト設定・リマインダーなど複合ナッジの有効性が確認されています。

保健指導の案内、こう変える。
「損失回避」実践3ステップ

── 「行動しないことで失うもの」を明確に提示する

STEP 1

「自分ごと化」させるデータで損失を提示する

漠然とした不安を具体的な数字で示し、「自分に関係のある損失」として認識させます。

💬 トーク例

「今回の健診結果を放置した場合、あなたの年代では●%の人が5年以内に服薬治療を開始しており、将来の医療費で年間〇万円の自己負担増に繋がる可能性があります。この無料で専門家のアドバイスを受けられる権利を、このまま失ってしまってよいでしょうか?」

STEP 2

「限定された機会」であることを強調する

「いつでもできる」と思うと先延ばしします。「期間限定」「今年度だけ」という言葉で、今行動しないと機会そのものを失うという損失感を高めます。

💬 トーク例

「特定保健指導の無料サポートは、今年度の対象者である今だけの権利です。来年度以降は同じサポートが受けられない可能性があります。受付は◯月◯日までです。」

STEP 3

「救い」と「具体的な次の一歩」をセットで示す

不安を煽るだけでは逆効果です。損失を伝えた後は必ず、「でも、まだ間に合います」「今なら簡単なステップで始められます」という救いのメッセージと、次に取るべき具体的なアクション(予約URL、電話番号、カレンダー添付等)をセットで提示します。

💬 トーク例

「でも、今ならまだ間に合います。下のボタンから、所要時間20分のオンライン面談を今すぐ予約できます。予約枠が埋まる前に、あなたの健康を守る一歩を踏み出してください。」

通知メールの Before / After

── 同じ情報でも「フレーム」を変えるだけで反応が変わる

❌ NG例(利得フレーム)

「特定保健指導のご案内です。保健指導を受けると、生活習慣の改善に役立ちます。参加をご希望の方は下記よりお申し込みください。
※特典としてポイントが付与されます。」

✅ OK例(損失フレーム+救済)

「【重要】あなたへの特定保健指導の無料枠は◯月◯日までです。この期間を過ぎると、今年度の無料サポートを受ける権利が失われます。
でも、まだ間に合います。下のボタンから20分のオンライン面談をご予約ください。」

📎 実務メモ:Chapman et al.(2016, PNAS)の研究では、インフルエンザ予防接種の案内に日時を指定した予約枠を記載しただけで接種率が大幅に向上。損失フレームに加え、「デフォルトで日時が決まっている」状態を作るオプトアウト方式の組み合わせがさらに効果的です。

💡 EXPERT INSIGHT

「正しい知識」だけでは人は動かない。
伝え方のデザインが健康経営の成否を分ける

約18年間、フィットネス・健康分野に携わり、2018年から法人向けの健康経営支援を続けてきた中で実感しているのは、「正論を言えば行動が変わる」わけではない、ということです。

特定保健指導の参加率が低い企業に共通する特徴は、案内文がすべて「利得フレーム」で書かれていることです。「健康になりましょう」「メタボを予防しましょう」──正しいけれど、行動には繋がりにくい。

一方、「今年度限りの無料枠を使わないと損」「この権利は◯月◯日で消滅します」と伝え方を変えただけで、予約率が跳ね上がった事例を何度も見てきました。

行動経済学は魔法ではありません。しかし、「伝え方のデザイン」を変えるだけでコストゼロで参加率が改善する──これは、費用対効果の高い健康経営施策そのものです。

── ウェルネスドア合同会社 代表 狩野 学

📚 参考文献・根拠

  • ・Kahneman D, Tversky A (1979) "Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk." Econometrica, 47(2), 263-291.
  • ・Tversky A, Kahneman D (1991) "Loss Aversion in Riskless Choice." Quarterly Journal of Economics, 106(4), 1039-1061.
  • ・Wang F, et al. (2025) "Digital nudge interventions for promoting cancer screening behaviours: a systematic review and meta-analysis." BMC Medicine.(OR=1.81)
  • ・Pūce L, Silkāne V (2026) "Nudging cancer screening uptake: a scoping review." Health Psychology Review.
  • ・Chapman GB, et al. (2016) "Default and appointment scheduling nudge." PNAS, 113(35), 10036-10041.
  • ・八王子市 大腸がん検診受診勧奨 損失フレーム実証(環境省ベストナッジ賞受賞)
  • ・厚生労働省「特定健康診査・特定保健指導の実施状況(令和4年度)」
  • ・厚生労働省「保健指導のポイントと好事例集 2024年度版」
  • ・厚生労働省 e-ヘルスネット「行動変容ステージモデル」「健康政策とナッジ」
  • ・福田吉治 (2019)「ナッジ理論の応用事例の収集と健康無関心層の実態に関する調査」厚生労働科学研究
  • ・経済産業省「令和6年度 健康経営度調査」

【免責事項】本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、特定の効果を保証するものではありません。個人の健康状態に応じた保健指導・医療については、必ず医師・専門家にご相談ください。

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