COLUMN SERIES
転ばない職場のつくり方
厚労省データと現場実践でひもとく、企業の転倒予防 ── 狩野 学
Vol.06 歩行中の「ながら行動」が転倒リスクを跳ね上げる科学的理由
2026.05.30 | 読了目安:約9分 | 著者:狩野 学(ウェルネスドア合同会社 代表)

スマートフォンを見ながら歩く。考え事をしながら歩く。荷物を両手に抱えて歩く──私たちが日常的に行っている「ながら歩行」が、転倒リスクを大幅に引き上げていることをご存じでしょうか。

転倒の約半分は何気ない「歩行中」に発生しています。そしてその多くに「マルチタスク歩行」──歩行と認知課題を同時に行う状態──が関わっています。Vol.06では、脳科学と認知心理学の最新研究をもとに、なぜ「ながら行動」が転倒リスクを跳ね上げるのかを解説します。

歩きスマホ事故 救急搬送
171
過去5年間(東京消防庁管内)
最多事故は「ころぶ」41%超
マルチタスク歩行時 速度低下
約22%
通常歩行と比較
38.8%超で転倒率が急上昇
認知機能低下者の転倒リスク
2.57
認知機能正常者と比較
Li & Harmer, 2020

1. 歩行は「自動運動」ではない ── マルチタスク歩行の正体

多くの人は、歩行を「意識しなくてもできる自動的な動作」と考えています。しかし、脳科学の研究が明らかにしたのは、歩行には想像以上の脳の情報処理リソースが使われているという事実です。

私のセミナーでは、歩行中に脳が同時に処理している情報を「姿勢制御」と「認知タスク」の2系統に分けて説明しています。

🦶 姿勢制御系
・ 歩行中の姿勢・バランスの維持
・ 足の運び方・着地の制御
・ 地面の傾き・凸凹への対応
・ つまずいた瞬間の回復動作
🧠 認知タスク系
・ 視界の情報処理(障害物の認知)
・ 考え事・会話・電話
・ スマートフォンの操作
・ 雨天時の傘の操作、荷物の保持

通常の歩行では、この2系統のバランスが保たれています。しかし、認知タスクの負荷が上がると、姿勢制御に使えるリソースが減少します。これが「マルチタスク歩行」による転倒リスク上昇のメカニズムです。認知科学では「二重課題干渉(dual-task interference)」と呼ばれます。

2. 「歩きながら話しかけると止まる人」は転倒リスクが高い

1997年、Lundin-Olssonらの研究チームが画期的な発見をしました。歩行中に話しかけると立ち止まってしまう高齢者は、将来転倒するリスクが有意に高い──つまり、歩行と会話を同時に処理できないことが、転倒の予測因子になるという発見です。

この報告以降、二重課題と転倒の関連を示す研究が次々と発表されました。

KEY EVIDENCE
歩行速度の低下と転倒リスク
歩きながら100から2を引く計算課題を行うと、歩行速度が通常より低下。低下率が38.8%を超える人は転倒率が急上昇する(山田, 2007)。
脳内リソースの枯渇 ── 外因だけではない
大阪大学・京都大学の共同研究(2024, Scientific Reports)では、段差や障害物がない平坦な地面でも、スマホ操作中は歩行の安定性指標が有意に低下。「見えていない」外因だけでなく、脳の情報処理負荷という内因が歩行を不安定化させることを実証。
認知機能低下 × 二重課題 → 転倒リスク2.57倍
670名の高齢者を対象とした研究(Li & Harmer, 2020)では、認知機能が低下した群は正常群と比べて転倒リスクが2.57倍、複数回転倒のリスクが2.33倍に上昇。
デュアルタスクトレーニングの効果
二重課題条件下でのバランス・歩行トレーニングを8週間実施した群は、転倒リスクが約25%減少。単一課題トレーニング群では有意な改善なし(Pan et al., 2019)。
KEY INSIGHT

東京消防庁のデータによると、歩きスマホ等に係る事故で過去5年間に171人が救急搬送されており、最も多い事故種別は「ころぶ(転倒)」で全体の41%超。中等症以上(入院が必要)と診断された人は36人にのぼります。歩きスマホは「若者の問題」ではなく、20代から70代まで幅広い年代で発生しています。

3. 職場で起きている「マルチタスク歩行」── 5つの典型パターン

歩きスマホだけが危険なのではありません。私が企業の安全衛生担当者と話すなかで頻繁に挙がる「職場の日常的なマルチタスク歩行」を5つのパターンに整理しました。

① 歩きスマホ(メール・チャット確認)
オフィス内の移動中にスマホやタブレットを見ながら歩く。視線が下がり、足元の障害物を認知できない+脳の情報処理が画面に占有される。
② 荷物を体の前で抱えて歩く
段ボール・書類の束を両手で抱えて階段を降りる。足元が見えない+前方荷重で重心が不安定化。踏み外しのリスクが最も高いパターン。
③ 考え事・会話をしながら歩く
会議の内容を考えながら廊下を歩く。電話で話しながら階段を降りる。視覚情報は入っているが、脳が処理できていない「非注意性盲目」の状態。
④ 急いで走りながら方向転換
遅刻しそうで小走りになり、角を曲がる瞬間にバランスを崩す。急ぎの心理状態=認知タスクの過負荷+速度増加による制御難度上昇。
⑤ 雨天時の傘+荷物+濡れた床
傘を閉じながら建物に入る→片手がふさがる→濡れた床面→滑りやすい靴底。環境リスク×マルチタスクの最も危険な組み合わせ。

4. セミナーで実践する「マルチタスク歩行体験」

私の転倒予防セミナーでは、参加者にマルチタスク歩行の危険性を「体感」してもらうワークを必ず組み込んでいます。

01
通常の片足立ち
まず目を開けた状態で片足立ちを行い、保持時間を記録。多くの人が30秒以上保持できます。
02
暗算しながら片足立ち
100から7を引き続ける暗算をしながら片足立ち。多くの参加者が10〜15秒でぐらつき始めます。
03
「驚きの瞬間」の共有
「たった暗算を加えただけで、こんなにバランスが崩れるのか」──この体験が、ながら歩行の危険性を自分事にします。

「歩きスマホが危ないことは知っていたけれど、暗算するだけでこんなにバランスが崩れるとは。考え事をしながら歩くことの怖さを初めて実感した」

5. 企業ができるマルチタスク歩行対策

「歩きスマホ禁止」の注意喚起だけでは不十分です。マルチタスク歩行のリスクを組織的に低減するために、以下の4つの対策を推奨します。

① 「止まって操作」ルールの徹底
スマホ・タブレットの操作は立ち止まって行う。階段では特に厳守。「歩きスマホ禁止」より「止まって操作」のほうが行動を具体的に指示できます。
② 荷物搬送ルールの整備
「足元が見えない状態で歩かない」をルール化。台車の利用、エレベーターの活用、2人搬送の基準を明確に。
③ 「ながら歩行体験」を研修に組み込む
暗算+片足立ちの体験ワークは、特別な器具なしで実施可能。「知っている」を「実感した」に変える最も効果的な方法です。
④ デュアルタスクトレーニングの導入
歩行+認知課題を意図的に組み合わせたトレーニングは、転倒リスクを約25%低減するエビデンスがあります。予防効果の高い運動プログラムとして導入を推奨。
SUMMARY
この記事のポイント
✔ 歩行は「自動運動」ではなく、脳の高次機能が深く関与する複雑な運動制御
✔ マルチタスク歩行では「姿勢制御」に使える脳のリソースが減少し、転倒リスクが上昇
✔ 歩行速度の低下率が38.8%を超えると転倒率が急上昇(二重課題干渉)
✔ 平坦な地面でも、スマホ操作中は歩行安定性が内因的に低下(大阪大学・京都大学, 2024)
✔ 歩きスマホ事故の41%超が「転倒」、20代〜70代の全年代で発生(東京消防庁)
✔ 職場の5大マルチタスク歩行:歩きスマホ・荷物搬送・考え事・急ぎ走り・雨天時
✔ デュアルタスクトレーニング(8週間)で転倒リスク約25%減少のエビデンスあり
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次回 Vol.07 では、「靴底の減り方でわかる転倒リスクセルフチェック」を解説します。靴底のすり減りパターンから歩行のクセを読み解き、転倒リスクを自分で把握する方法をお伝えします。

AUTHOR
狩野学 プロフィール写真
狩野 学Manabu Karino
ウェルネスドア合同会社 代表 / NASM認定トレーナー

フィットネス・健康分野で約18年の経験を持ち、2018年より法人向け健康経営支援を開始。転倒予防セミナーの企画・登壇を多数の企業・健保組合で担当。厚生労働省の転倒等リスク評価セルフチェック票を活用した体力測定型プログラムや、正常性バイアスの解除をテーマにした科学的アプローチを得意とする。情報誌『エルダー』(独立行政法人 高齢・障害・求職者雇用支援機構、2024年1月号)にて健康経営に関するインタビュー掲載。

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