転倒は「痛い」で終わる問題ではありません。
1件の転倒が企業に与える経済損失は、多くの経営者が想像する以上に大きい。平均休業47.5日の直接コストに加え、代替人員の確保、業務の遅延、周囲の士気低下──これらの「見えない損失」を合わせると、1件あたり数百万円規模に達することもあります。Vol.04では、転倒の経済損失を具体的に算出し、予防投資の合理性を数字で証明します。
転倒災害の損失は「氷山」に例えられます。水面上に見える直接損失は全体のごく一部であり、水面下には遥かに大きな間接損失が隠れています。
安全衛生の分野では、この見えない損失は直接損失の3〜5倍に達するとされています。つまり、直接損失が50万円であれば、総損失は200〜300万円に及ぶ計算です。
年収500万円の従業員が転倒で47.5日間休業した場合の損失を試算します。
骨折を伴う重傷事例では、休業が3か月以上に及ぶケースもあり、損失額はさらに膨らみます。大腿骨頸部骨折の場合、復職まで半年以上かかることも珍しくありません。
仮に年間3件の転倒災害が発生すれば、年間700万円以上の損失となります。従業員300人規模の企業であれば、転倒だけで年間売上の数%を失っている計算です。
転倒の経済損失を経営者に伝えるとき、最も効果的なのは「予防コストとの比較」です。転倒予防研修を年1回実施するコストは、転倒1件の総損失の10分の1以下。1件でも防げれば、投資は即座に回収できます。
経営者が最も関心を持つのは「投資対効果」です。転倒予防の投資は、他の安全衛生投資と比較しても高いROIが期待できます。
転倒予防研修(年1回・全社員対象)のコストを仮に30〜50万円とした場合、転倒災害を年間1件防ぐだけで、ROIは4〜8倍に達します。
さらに、転倒予防の効果は経済損失の回避だけにとどまりません。従業員の健康意識の向上、安全文化の醸成、健康経営度調査での加点──これらの「見えないリターン」も含めると、投資価値はさらに高まります。
転倒対策を経営層に提案する際、以下の3つの数字を伝えるだけで、意思決定は格段に速くなります。私がこれまで企業に転倒予防研修を提案してきた経験でも、この3つの数字を示した瞬間に「やりましょう」と言っていただけることが増えました。
転倒予防の投資対効果は、損失回避だけで語るべきではありません。研修を実施した企業の担当者から、繰り返し聞く声があります。
「転倒予防をきっかけに、社員が自分の健康について初めて真剣に考えるようになった」
転倒予防研修は、参加者が自分の身体の「現在地」を知るきっかけになります。体力テストの結果に驚いた参加者が、翌日から階段を使い始める。休憩時間にストレッチをする同僚が増える。こうした小さな行動変容の積み重ねは、企業全体の健康文化を変えていきます。
また、健康経営度調査では「従業員の安全衛生に関する取り組み」「体力測定の実施」「独自の健康指標の設定」が評価項目に含まれています。転倒予防研修を定期的に実施し、体力テストのデータを蓄積することは、健康経営優良法人の認定取得にも直結します。
次回 Vol.05 では、「転倒の3大パターン ── つまずき・滑り・踏み外しの発生メカニズム」を解説します。転倒を「なんとなく転んだ」ではなく、発生メカニズム別に分解することで、的確な対策が見えてきます。
フィットネス・健康分野で約18年の経験を持ち、2018年より法人向け健康経営支援を開始。転倒予防セミナーの企画・登壇を多数の企業・健保組合で担当。厚生労働省の転倒等リスク評価セルフチェック票を活用した体力測定型プログラムや、正常性バイアスの解除をテーマにした科学的アプローチを得意とする。情報誌『エルダー』(独立行政法人 高齢・障害・求職者雇用支援機構、2024年1月号)にて健康経営に関するインタビュー掲載。