「足元に気をつけましょう」──転倒防止の呼びかけで、最もよく聞く言葉です。
しかし私は、多くの企業で転倒予防セミナーを実施してきた経験から断言できます。この精神論だけでは転倒災害は減りません。令和6年の労災確定データが示すのは、転倒が4年連続で増加し、労災全体の26.8%を占めているという事実です。本コラムでは、なぜ「気をつける」では防げないのか、その構造的な原因を解き明かします。
厚生労働省が公表した令和6年の労働災害発生状況(確定値)によると、休業4日以上の死傷者数は135,718人に達し、4年連続で増加しています。
そのなかで最も多い事故型が「転倒」です。つまずき、滑り、踏み外しによる転倒災害は36,378件にのぼり、全体の26.8%を占めています。前年比で+320件──「減る兆し」がまったく見えない状況です。
転倒1件あたりの平均休業見込日数は47.5日。約1.5か月の戦力離脱は、人員計画、業務引き継ぎ、代替要員の確保まで含めると、直接損失の数倍のコストを企業に強います。
60歳以上の労働者の労災発生率は、30代男性の約2倍、女性では約5倍に達します。高齢化が進む職場ほど、転倒災害リスクは加速度的に上昇します。2024年には60歳以上の死傷者が全体の30.0%を占め、過去最高を更新しました。
転倒防止対策の現場で最も多い対策は「注意喚起」です。しかし、私がこれまで多くの企業で転倒予防セミナーを実施してきた経験から言えるのは、「注意する」という精神論が転倒を減らすことはほとんどないということです。
その最大の理由は「正常性バイアス」にあります。人は「自分だけは大丈夫」「今まで転ばなかったから今後も転ばない」と無意識に信じてしまいます。このバイアスがある限り、いくら注意を呼びかけても行動は変わりません。
実際、転倒被災者の多くは、被災直前まで「自分は転倒しない」と認識していたという調査結果があります。正常性バイアスの解除こそが、転倒対策の第一歩です。
「転倒災害の防止に当たっては、加齢に伴う身体機能の低下に留意しつつ、職場環境の改善、身体機能の維持向上及び安全衛生教育の実施が重要である」
転倒を「個人の不注意」ではなく「組織的に対処可能なリスク」として捉え直すとき、対策は3つの視点に整理できます。
この3つの視点のなかで、多くの企業で最も手薄なのが「02 身体を知る」です。環境整備(手すり・段差解消・滑り止め)は進んでいても、「従業員の身体機能を測定・把握する仕組み」を持っている企業はごく少数です。見えないリスクは管理できません。
私が企業の安全衛生担当者と話すとき、ほぼ全員がこうおっしゃいます。
「手すりもつけた。段差も解消した。注意喚起もやっている。でも転倒は減らないんです」
この声を聞くたびに感じるのは、企業の転倒対策が「外的要因」──つまり環境整備にほぼすべてのリソースが集中しているということです。環境整備は大前提ですが、「多少の段差でも転ばない身体機能を維持する仕組み」が設計されていません。
さらに根深い問題があります。多くの企業では、安全衛生は「安全衛生担当者」、健康増進は「人事・健康経営担当者」が、それぞれ別の施策として運用しています。この縦割りこそが、転倒対策の最大の障壁です。環境は安全衛生の仕事、身体機能は健康経営の仕事──この分断がある限り、転倒は減りません。
次回 Vol.02 では、「自分は大丈夫」が最大のリスクである理由を、認知心理学の視点からさらに深掘りします。正常性バイアスを「解除」するために、研修の現場で私が実際に使っている手法もご紹介します。
フィットネス・健康分野で約18年の経験を持ち、2018年より法人向け健康経営支援を開始。転倒予防セミナーの企画・登壇を多数の企業・健保組合で担当。厚生労働省の転倒等リスク評価セルフチェック票を活用した体力測定型プログラムや、正常性バイアスの解除をテーマにした科学的アプローチを得意とする。情報誌『エルダー』(独立行政法人 高齢・障害・求職者雇用支援機構、2024年1月号)にて健康経営に関するインタビュー掲載。