「転倒」と一口に言っても、すべてが同じメカニズムで起きているわけではありません。
転倒災害は大きく「つまずき」「滑り」「踏み外し」の3パターンに分類されます。それぞれ原因が異なれば、対策も異なります。「転倒防止」と一括りにして対策を打っても効果が出にくいのは、この分類を無視しているからです。Vol.05では、3つのパターンそれぞれの発生メカニズムを分解し、パターン別に「何が効く対策か」を明確にします。
つまずきは、歩行中に足先が床面の突起物・段差・障害物に引っかかり、前方へのバランスを失うことで発生します。つまずいた瞬間に反対側の足で踏みとどまれるかどうかは、下肢の筋力と反応速度に依存します。
つまずきが全体の約45%を占める最大の理由は、「職場にはつまずきの原因が至るところにある」からです。わずか数ミリの段差、配線ケーブル、通路に置かれた荷物、めくれたマット──日常的に見慣れた光景のなかに、つまずきの原因が潜んでいます。
さらに厄介なのは、Vol.02で解説した「認知的慣化」です。毎日通る場所の段差やケーブルは、脳が「既知の情報」として処理してしまうため、意識的な注意が向かなくなります。つまずきの大半は、「知っているはずの障害物」で起きているのです。
滑りは、靴底と床面の間の摩擦力が、歩行時に足にかかる水平方向の力を下回ったときに発生します。摩擦力を低下させる要因は「床面の状態」「靴底の状態」「歩き方」の3つです。
滑りによる転倒は、つまずきと僅差の約43%を占めます。特に注意が必要なのは、滑りは「環境要因」と「靴の要因」が掛け算で作用するという点です。
乾いた床で新品の安全靴を履いていれば滑りません。しかし、同じ靴でも床が水で濡れていれば滑ります。逆に、乾いた床でも靴底がすり減っていれば滑ります。環境と靴の「どちらか一方」が劣化するだけで、滑りのリスクは跳ね上がるのです。
私のセミナーでは「靴底すり減りチェック」を必ず実施します。参加者に自分の靴を裏返してもらうだけで、約3割の参加者が「靴底の溝がほぼなくなっている」ことに気づきます。靴底は毎日見るものではないからこそ、意識的にチェックする仕組みが必要です。溝の深さが2mm以下になったら交換時期です。
踏み外しは、階段・ステップ・縁石などの端を正確に踏めず、足が空振りすることで発生します。下り階段での発生が特に多く、落差があるため骨折などの重傷に直結しやすいのが特徴です。
踏み外しは全体の約12%と件数は最も少ないですが、1件あたりの重傷化率が最も高いパターンです。つまずきや滑りは「同じ平面上」での転倒ですが、踏み外しは「高低差のある場所」で発生するため、落下エネルギーが大きく、骨折・頭部打撲などの重傷につながりやすいのです。
特に危険なのは下り階段です。上り階段では視線が自然と足元に向きますが、下り階段では視線が前方に向くため、足元への注意が不足します。さらに、荷物を持っている場合は足元が見えず、踏み外しのリスクが急上昇します。
3つのパターンそれぞれに「最も効果的な対策の軸」が異なります。限られた予算と工数のなかで対策の優先順位を決めるには、自社の転倒災害がどのパターンに集中しているかを分析することが出発点です。
注目していただきたいのは、3パターンすべてに共通して「身体面の対策」が含まれている点です。環境をどれだけ整備しても、「多少の段差でもつまずかない下肢筋力」「滑りかけても踏みとどまれるバランス能力」がなければ、転倒は防げません。環境対策と身体対策は車の両輪です。
対策の第一歩は「自社の転倒がどのパターンに偏っているか」を把握することです。私がセミナーで推奨しているのは、「転倒リスクマップ」の作成です。
やり方はシンプルです。職場の見取り図に、過去のヒヤリハット・転倒事例の発生場所をプロットし、「つまずき」「滑り」「踏み外し」のパターン別に色分けします。5分でできるこの作業が、驚くほどリスクの偏りを可視化してくれます。
「マップを作ったら、通路の角と階段の踊り場に集中していることが一目でわかった。対策の優先順位が明確になった」
このような声を、実際に危険マップを作成した企業の担当者から何度も聞いています。漠然と「転倒防止」と言うのではなく、パターンと場所を特定してから対策を打つ──これが、限られたリソースで最大の効果を出す方法です。
次回 Vol.06 では、「歩行中の"ながら行動"が転倒リスクを跳ね上げる科学的理由」を解説します。スマートフォンを見ながら、考え事をしながら歩く──日常的な「マルチタスク歩行」がいかに危険かを、認知科学の視点から掘り下げます。
フィットネス・健康分野で約18年の経験を持ち、2018年より法人向け健康経営支援を開始。転倒予防セミナーの企画・登壇を多数の企業・健保組合で担当。厚生労働省の転倒等リスク評価セルフチェック票を活用した体力測定型プログラムや、正常性バイアスの解除をテーマにした科学的アプローチを得意とする。情報誌『エルダー』(独立行政法人 高齢・障害・求職者雇用支援機構、2024年1月号)にて健康経営に関するインタビュー掲載。