COLUMN SERIES
転ばない職場のつくり方
厚労省データと現場実践でひもとく、企業の転倒予防 ── 狩野 学
Vol.02 「自分は大丈夫」が最大のリスク ── 正常性バイアスと転倒の関係
2026.05.29 | 読了目安:約9分 | 著者:狩野 学(ウェルネスドア合同会社 代表)

「転倒しやすいのは高齢者だけでしょう?」「自分はまだ若いから大丈夫です」──転倒予防セミナーの冒頭で、参加者にこう聞くと、ほぼ全員がうなずきます。

しかしセミナーの中盤、実際に体力テストを行うと表情が一変します。「自分の身体がここまで衰えていたとは思わなかった」──この気づきこそが、転倒予防の出発点です。Vol.02では、なぜ人は自分の転倒リスクを過小評価してしまうのか、その心理構造と「解除」のアプローチを解説します。

1. 「自分は転ばない」という確信の正体

Vol.01で紹介した「正常性バイアス」は、転倒対策の最大の壁です。この壁が厄介なのは、本人がバイアスの存在に気づいていないという点にあります。

心理学では、自分の能力を実際より高く見積もる傾向を「ダニング=クルーガー効果」と呼びます。転倒リスクの文脈では、以下の3つの形で現れます。

身体能力の過大評価
「自分はまだ動ける」と信じているが、実際の片足立ち時間やステッピングテストの結果は、本人の自己評価を大幅に下回ることがほとんど。
環境リスクの過小評価
毎日歩く通路の段差、濡れた床、ケーブルの配線──慣れた環境のハザードは「認知的慣化」により見えなくなる。
加齢変化の時間差認知
筋力低下は年間1〜2%ずつ進行するため、日常生活では気づかない。「いつの間にか転ぶ身体」になっていることに気づくのは、転倒した後。

2. 自己評価と実測値のギャップ ── 体力テストが暴く真実

私が転倒予防セミナーで必ず行うのが、「自己評価」と「実測値」の比較です。セミナーの冒頭で参加者に「自分のバランス能力は同年代と比べてどうか?」と5段階で自己評価してもらい、その直後に実際の体力テストを行います。

結果は毎回同じです。

自己評価「平均以上」と回答
約70%
セミナー参加者
実測で「要注意」判定
約40%
同じ参加者のうち
ギャップに「驚いた」
90%以上
セミナー後アンケート

約7割の参加者が「自分は平均以上」と自己評価しますが、実際に片足立ちテストや座位ステッピングテストを実施すると、そのうち約40%が「要注意」レベルと判定されます。

この「ギャップの可視化」が、正常性バイアスを解除する最も強力なトリガーです。数値で自分の現在地を突きつけられたとき、人は初めて「自分ごと」として転倒リスクを認識します。

KEY INSIGHT

厚生労働省の「転倒等リスク評価セルフチェック票」には5項目の体力テスト(開眼片足立ち、座位ステッピング、ファンクショナルリーチ、2ステップテスト、握力)が含まれています。このうち片足立ちテストは特別な器具を必要とせず、その場で実施できるため、セミナーでの「気づきの演出」に最も効果的です。

3. 正常性バイアスを「解除」する3つのアプローチ

「気をつけましょう」という注意喚起がバイアスを解除できないことはVol.01で述べました。では、何が有効なのか。私が研修の現場で実践し、効果を確認している3つのアプローチを紹介します。

01
数値で「見える化」する ── 体力テストによる客観的評価

片足立ちテスト、座位ステッピングテスト、歩行速度測定──これらの体力テストを実施し、自己評価との「ギャップ」を数値で示します。人は抽象的なリスクには鈍感ですが、自分自身の数値には強く反応します。「あなたの片足立ち時間は15秒です。同年代平均は30秒です」──この一言が、正常性バイアスを一瞬で解除します。

02
「他人事」を「自分事」に変える ── 損失フレーミング

行動経済学で知られる「損失回避」の原理を応用します。「転倒を予防しましょう」よりも「転倒すると47日間仕事ができなくなります。その間の収入減は○○万円です」と伝える方が、行動変容を促す力は約2倍になります。人は「得ること」よりも「失うこと」に強く反応するため、転倒による具体的な損失を提示することが効果的です。

03
「身体で実感」させる ── 体験型ワークの設計

座学で「筋力が低下しています」と伝えるだけでは、腑に落ちません。しかし、片足立ちで目を閉じた瞬間にぐらつく体験、歩行中にマルチタスク(暗算など)を加えた途端に歩行が不安定になる体験──これらは「自分の身体の現在地」を否応なく実感させます。私のセミナーでは、必ず実技パートを組み込み、参加者自身の身体を通じてバイアスを解除します。

4. 研修の現場で起きる「気づきの瞬間」

私が最も手応えを感じるのは、セミナー中盤の体力テスト直後です。

「まさか自分がここまで衰えているとは思わなかった。明日から階段を使います」

このような声は、参加者が「知識」ではなく「体験」を通じてリスクを認知した証拠です。重要なのは、この気づきを一過性の感想で終わらせないことです。

私のセミナーでは、体力テストの結果を記録し、半年後・1年後に再測定することを推奨しています。「測定→気づき→行動→再測定」のサイクルを回すことで、一度の研修が継続的な転倒予防プログラムに進化します。

正常性バイアスの解除は「一回で終わる」ものではありません。定期的な再測定によって、加齢による変化を自分で追跡できる仕組みを設計することが、組織的な転倒対策の核心です。

SUMMARY
この記事のポイント
✔ 約70%の人が「自分のバランス能力は平均以上」と自己評価するが、約40%が実測で「要注意」判定
✔ 正常性バイアスは「身体能力の過大評価」「環境リスクの過小評価」「加齢変化の時間差認知」の3形態で現れる
✔ 解除の3アプローチ:①数値で見える化 ②損失フレーミング ③身体で実感
✔ 片足立ちテストは器具不要で、その場で「ギャップ」を体験できる最も効果的な手法
✔ 一度の気づきを継続的なプログラムに進化させるには「測定→気づき→行動→再測定」サイクルが必要
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次回 Vol.03 では、「50代女性の転倒リスクが男性の2倍以上になる理由」を、筋力・骨密度・更年期の3つの要因から科学的に解説します。女性従業員が多い職場の安全衛生担当者に、ぜひ読んでいただきたい内容です。

AUTHOR
狩野学 プロフィール写真
狩野 学Manabu Karino
ウェルネスドア合同会社 代表 / NASM認定トレーナー

フィットネス・健康分野で約18年の経験を持ち、2018年より法人向け健康経営支援を開始。転倒予防セミナーの企画・登壇を多数の企業・健保組合で担当。厚生労働省の転倒等リスク評価セルフチェック票を活用した体力測定型プログラムや、正常性バイアスの解除をテーマにした科学的アプローチを得意とする。情報誌『エルダー』(独立行政法人 高齢・障害・求職者雇用支援機構、2024年1月号)にて健康経営に関するインタビュー掲載。

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